mikami lab.@名古屋大学 大学院環境学研究科 環境政策論講座

名古屋大学大学院環境学研究科 環境政策論講座の三上直之のサイトです。2023年10月に北海道大学から現所属に異動しました。

名門ホテル総料理長が語る「技術よりも大事なもの」

環境社会学の調査でお世話になっている三重県志摩市のOさんから,ぜひ見てみてと勧めていただいた番組。

www.nhk.or.jp

主人公は,2016年の伊勢志摩サミットの会場ともなった,志摩観光ホテルの7代目総料理長,樋口宏江さんである。同ホテルにある,2つのフレンチと,鉄板焼き,和食,それにカフェ&バーという計5つのレストランを取り仕切っている。私とほぼ同年代で,高校生か中学生(だったと思う)の2人の男の子の母親でもある。

私はご本人にお会いしたことがなく,このホテルで食事したことも,残念ながらまだない。調査地について理解を深めるため,これは必見と考え,録画しておいた。後日,見始めると,調査云々以前に,樋口さんの言葉に共感するところが多々あって,途中何度も一時停止ボタンを押してメモを取りつつ見ることになった。

番組によれば,樋口さんは,深刻なアワビの不漁の中,アワビや伊勢エビに頼ったこれまでのメニューに限界を感じている。そこで,もっと地味だけれども,やはり地元でとれる作り手の思いがこもった他の食材を生かしたメニューを開発したいと考え,試行錯誤を繰り返している。

レストランが閉店した深夜,厨房で一人,新メニューを試作する姿は,授業などの校務が済んだ後で,おもむろに研究を始める研究者に通じるものがあるなと思った。こういう時間は,私にとっては至福のひとときであるが,同時に難しい課題を前に自分の力の足りなさと向き合わざるを得ない,しんどい時間でもある。

にわかには信じがたい話だが,樋口さんも,実力の限界を感じることがあるという。しかし,次のような話を聞いて,これは本当に壁にぶつかって もがいている人の言葉だと納得した。研究に関する自分自身の経験でも,これと同じようなことが言えると思ったからである。

これだけの力しかないとしても,やっぱりどれだけ一生懸命にやるかとか,それに対して真剣に向き合うかっていうことが大事だと思うんで,私は料理もそうですけれども,技術がなくても,どれだけ丁寧にどれだけ一生懸命やろうかっていう気持ちの方が大事で,思いって伝わると思うんですよ。

技術がなくても思いがあれば,というのは,一歩間違えると単なる精神論に陥る危うさがある。しかし,ここで言われているのはそういう話ではない。実際,樋口さんは「プロフェッショナルとは?」と問われて,次のように述べている(番組の最後に,エンディングテーマが流れる中,主人公がしゃべる例の部分)。

 (プロフェッショナルとは)覚悟をもってその道に進み,つねに挑戦しつづけること。その挑戦しつづけるものを具体的に形として表現できる力を持っている人のこと。 

形にできる力,技術は必要なのである。それでも技術が,力が及ばないことは往々にしてある。問われるのは,そこでどうするかである。技術の限界は,難しい課題に挑戦しようとするほど,多くの場合,避けがたくなるのだから,むしろその限界ある力の中でいかにベストを尽くすのかという姿勢の方が,技術の巧拙以上に,他の人に訴える力を持つということであろう。しかも,そういう姿勢を一瞬のポーズとしてではなく,プロの仕事としていかに保持できるかは,単なる精神論ではなく,すでに高度な修練を要する領域の話だと思う。

食材を求めて,自ら車を運転して地域を歩き回る姿も紹介されていた。夏のある日,人口減少によりみかん農家の経営が困難になっている隣町に向かい,熟する前の間引きされたみかんを仕入れてきた。その青々としたみかんを使ったソースを,松坂牛の薄切り肉に合わせた新しいメニューを編み出す。そして,ホテルのレストランで開いた賞味会(試食会)には,そのみかん農家を招待した。

(食材を)作っていただいている方の張り合いにもなると思うので,人と人とのつながりがきっちり作れるっていうことが大事かなと思います。

シェフの仕事を通じて,地域の中に人と人とのつながりを生み出していく。思いがけないテーマの登場であった。樋口さんは,こうも話していた。

(食材を)作られる方の思いをしっかり理解すること。最後にお客様のお口に入る状態にするのは私たち料理人なので,最終的には私たちがその思いを,すべての思いを乗せなければいけないと思います。自分の思いだけではないお皿。

本当に良いものは,地に足ついた営みの中からしか生まれない。それこそ,そんな「思い」が伝わってくる言葉である。

樋口さんは,毎日,ランチとディナーの間のわずかな空き時間に職場を抜け出し,自宅で夕食を作るようにしている。総料理長のできたての料理を毎日食べられるご家族は何と幸せだろうと思うが,ここにも,足元の食事をおろそかにしているようでは,名門ホテルのレストランで最高の料理を提供することなどおぼつかないという信念のようなものを感じた。

番組は終盤,アワビに頼らない新メニューとして,宝彩エビのクロケットの開発に没頭する樋口さんに密着していく。作ってみてはホテルの幹部の試食に供することを繰り返すものの,上品でおいしいけれど,アワビに代わるメインのメニューとしては弱い,という反応。それでも樋口さんは挑み続ける。

止まってはだめだと思います。歩き続ける,歩み続けなければ。止まってはだめだと。止まることはたぶん後ろに下がっていることだと思います。

やっぱり最初に何か今までのものを壊して新しくものを打ち出すときっていうのは,最初からみんなに「いいね」って言われるものってなかなか難しいと思うし,そういうものはたぶん残っていかないと思うんですね。お客様の記憶の中にいつまでも残るような,そういうお料理を作らないと。 

こうして迎えた番組のエンディングは,樋口さんの仕事の姿勢と共振するようなまとめ方で,好感が持てた。

こんなに「思いの乗った」言葉の数々を樋口さんから引き出すばかりでなく,疲弊した農村の現状や,地域におけるつながりの再生といった,今の地方の課題を番組の中に自然に取り込んでいる点でも,作り手の並々ならぬ「力」と「思い」を感じさせる番組であった。(NHK総合 2019年10月22日 22:30〜放送)