mikami lab.@名古屋大学 大学院環境学研究科 環境政策論講座

名古屋大学大学院環境学研究科 環境政策論講座の三上直之のサイトです。2023年10月に北海道大学から現所属に異動しました。

第6回「JJSCを読む会」の報告

6月に発行された雑誌『科学技術コミュニケーション』19号の合評会(JJSCを読む会)を、7月26日(火)夜、北海道大学情報教育館4階共用多目的教室(1)で開きました。この合評会は『科学技術コミュニケーション』に掲載された論考をもとに、さらに議論や交流を発展させる目的で、有志で構成する実行委員会が、理学院の科学コミュニケーション講座やCoSTEPの協力を得て開いています。2013年に始まって今回で6回目です。

今回対象の19号には、今年3月に開かれた「デュアルユース」に関するシンポジウムを再録した小特集のほか、自由投稿による5本の報告と1本のノートが掲載されています。合評会ではこの中から、次の3本の報告を対象として議論しました。各論考について、あらかじめ決めておいた評者がレジュメを使って10分から15分ほどで内容を紹介し、その後、参加者全員で議論するというのを繰り返しました。以下、私の個人的な感想も交えつつのまとめになりますが、合評会での議論の内容をご報告します。
*以下のコメントは、合評会当日の議論をもとに三上が独断で作成したものであり、一切の文責は評者の皆さんではなく私にあります。

1. 加藤俊英・標葉靖子「科学コミュニケーション入門としての大学公開講座の可能性:「高校生のための金曜特別講座」参加者のセグメンテーション分析」(pp.17-29)【評者:小坂有史さん】

東京大学教養学部で実施されている高校生向けの公開講座の参加者に対する質問紙調査の報告である。参加者した高校生を、科学・技術系、社会・文化系への関心の度合いによって四つの層(セグメント)に分類し、各層の講座に対する評価を分析した。その結果、科学技術への関心があまり高くない層も参加者に含まれていることや、その種の参加者にも科学技術に関する講義内容がある程度は理解されていることが示された、という。ここから著者らは、大人数制の大学公開講座には、科学技術に対して高い関心を持たない高校生に科学コミュニケーション入門を提供する可能性があると主張する。

大人数制の大学公開講座を科学技術コミュニケーションの観点から捉えるという切り口は、私自身、大学公開講座の企画運営に携わっているから、とても興味深かった。合評会参加者からも「大人数制の講義のような“一方通行型”と言われるような活動にも、科学技術コミュニケーションとしての役割があることを明らかにした点が意義深い」などの意見が聞かれた。また、参加した高校生の親から自分も参加したいという問い合わせがあったとの記述に、「高校生が家族の会話の話題に取り上げていることや、そこから親にも関心が広がっているのが面白い」という意見もあった。

研究方法や結論をめぐっては、次のような指摘もあった。

  • もともと一般向けにつくられた層別(セグメンテーション)の尺度を、知識も関心も成長途上にある高校生に当てはめることは本当に適切か、疑問を感じた。
  • 今回の参加者から、どこまで「高校生」一般に関する知見を引き出すことが可能か。都内の高校に通う、しかも東京大学公開講座に参加するような高校生であるという偏りに留意する必要がありそう。
  • 最終的に何を目指しているのか、つかみにくいところがあった。著者らが目指す科学コミュニケーションとはどのようなものであり、大学公開講座の企画運営においてどのような要素を増やせば、その方向に近づくのか。そうした方向に展開する方が、参加者の層別分析などを行うよりも有効だと感じた。

今回の合評会では、内容紹介も合わせて1論考につき30分程度を予定していたが、(司会の私の不手際もあって)この論考だけで1時間にも及んでしまった。いろいろな意味で議論を喚起する論考だったと思う。

2. 辻野昌広ほか「市民参加による生物モニタリングが参加者の学びと地域への関心に及ぼす影響:チノービオトープフォレストにおける事例紹介」(pp.43-56)【評者:岡崎朱実さん】

民間企業の敷地内に設けられたビオトープでの自然観察会に生物モニタリングの活動を導入し、主催者とインタープリター、参加者の間のコミュニケーションや学び合いを促進しようとする試み。今年2月に著者らが実施した観察会(カマキリの卵塊調査、ヤゴの捕獲調査を含む)に際して行った参与観察を報告している。カマキリやヤゴの調査結果をインタープリターと参加者の共同作業によってその場で共有することで「受け身ではない学び」が実現した、という。モニタリング結果を参加者へフィードバックすることで、地域や科学への関心を高めたり、ビオトープ再訪のきっかけをつくったりする効果もあったのではないか、とも述べられている。

ディスカッションでは、まず著者らが実施した自然観察会の方法上の工夫に注目が集まった。

  • ポスターを使ってまとめるなど見える形を使って、その場で結果を共有するという観察会の手法の工夫が参考になる。
  • モニタリングを、研究者だけでなく地域の人の目でやるということには大きな意義があると思う。ただ、すべてを1日でやるプログラムなので、参加者にとっては咀嚼の時間が足りないかもしれないと思った。
  • 二つの調査活動の前にそれぞれ5分ずつ説明とデモの時間があったというが、5分の説明ではなかなか意義は伝わらないかも。

これらの意見と並んで「参加者にとって、その後、本当に実践的なアクションに結びつくのかについては、まだ十分な説得力は感じられなかった」というコメントもあった。その他、参与観察の方法や論考のまとめ方について、次のようなさまざまな角度から感想や意見が出された。

  • 参加していなかった人に「良いイベントだった」ということが伝わるように書くのは本当に難しい。アンケート結果を、表の形で一人ずつ分かるように示しているのは良い形だと思った。
  • 観察会の中でのおしゃべりを丁寧に拾って、ファシリテートしていくと面白くなりそう。報告する際にも発話を丁寧に拾うことで、観察会の良さがもっとよく伝わるようになると感じた。
  • ビオトープの設置者である会社の経営側の反応や意識の変化なども把握できると、さらに広がりが出て面白いと思う。
  • 参加者にとっての環境学習と、生物モニタリングへの市民参加のどちらが中心なのか。どちらも大事、ということなのかもしれないが、科学に貢献するということは科学コミュニケーションの本質ではないはずで、話の重心がどこにあるのか、わかりにくい感じもした。

環境社会学にも隣接する話題であり、私自身とても興味深く読んだ。少しもったいないと感じたのは、「環境学習」に関する視野が、生物や生態系についての学びに限定されすぎているように読めることだった。論考の中では「地域の自然環境をどう利活用していくかを考えるときには、市民が主体的に参加することが大事」(p.53)とも述べられている。もしそうだとすれば、地域の文化や、自然環境を取り巻く社会的な問題などについて、生活者の視点から学び合うという視点も大事にしたい。

もっと言えば、そうした比較的マジメな「学習」以外に、参加者同士が普段の文脈を離れて交流し合うといったことも、自然観察会が提供してくれる学びではないか。これはまったく個人的な経験から、そのように思っている。自然観察会に積極的に参加する方ではない私も、大学院時代の調査地である東京湾三番瀬で、当時からお世話になっているNPOの人たちが開く観察会には、今でもほぼ毎年1回、参加している。その楽しみは、時々の干潟の自然に触れることもあるのだが、それ以上に、すでに15年もの付き合いになるNPOの皆さんと一緒に、よく潮が引いた干潟の上を歩きながら、仕事や家族の状況(子どもの成長とか、親の介護のことも含めて)やら、最近見た映画やら、政治の状況やらについて、色々と世間話することだったりする。年代的には、私よりも10歳か20歳ぐらい上(たぶん?!)の人生の先輩たちだから、かれらの話を聞くのは心から勉強になると思うし、何より今ではお互いに全くしがらみのない関係なので、普段の生活ではなかなか味わえない解放感がある。

今回の合評会の後、近くの洋風居酒屋に移動して開いた懇親会で、JJSC編集長の早岡さんに「自然観察と言えば、三上さんと干潟(三番瀬)という取り合わせが全く似合わないと以前から思っていた」と言われ、私も全くその通り(笑)だなと思った。たぶん私は、干潟の自然も嫌いではないけれど、そこに集まる人たちの方に興味があって通い続けているのだと思う。そんなわけで、辻野さんたちの自然観察会における交流と学びも、参加者の数だけ多様な方向へ発展する可能性を秘めているように思えた。そうしたものを丁寧に掘り起こしていくことも、科学コミュニケーションの貴重な実践報告になるだろう。続報を期待したい。

3. 一方井祐子・横山広美「東日本大震災後、科学コミュニケーターは何ができたのか」(pp.57-70)【評者:杉田恵子さん】

2011年の東日本大震災原発事故の後、科学コミュニケーター自身がどのように考え行動したのかを明らかにすべく、2013年に実施したウェブ調査の結果報告である。63人の職業的科学コミュニケーターが回答し、その5割が震災以降、科学コミュニケーターとしての活動に限界を感じていたこと、また震災後の科学コミュニケーターの活動が限定的であったとの批判に対して、約8割が「妥当である」「比較的妥当である」と考えていることなどが示されている。また記述回答の分析から、震災後の科学コミュニケーターの活動には、リスクコミュニケーションに必要なスキルの不足、情報収集・発信に求められる専門性の壁、大きく波立つ人々の感情に対処する困難、という三つの「壁」が存在した、と述べられている。ウェブ調査の後で開いたワークショップの議論内容も紹介され、上記の壁を乗り越えるための方向性として、震災後のような迅速な情報発信が求められる状況下では、科学コミュニケーターが「適切なデータや見解を示す科学者集団」とグループを組んで活動することが有効だと提言されている。

この合評会に参加している人たちにとって、科学(技術)コミュニケーターが社会の中でどんな役割を果たしうるのかというのは、つねに共通の関心テーマである。「震災後」という状況の中で、コミュニケーターたちが自らの役割についてどのように考え、実際にどう行動したかという調査結果は、合評会参加者にとって非常に興味深いものであり、活発な意見交換がなされた。

  • 震災の時の状況を、科学コミュニケーションという観点からどう評価するかという議論は、きちんとやらなければならない。その意味では、非常に参考になる貴重な調査報告だと思う。
  • 科学コミュニケーターが震災を振り返って、ある意味で内罰的な感じになっている傾向をよく表す結果だと思った。反省はたしかに必要なのだが、震災以降、従来行われてきた科学コミュニケーションの活動よりもリスクコミュニケーションの方が重要、というようなムードに傾きすぎている面もある。それはそれで危ないのではないか。
  • 自分自身は震災当時、別の分野にいたのだが、後にこの分野に入って、科学コミュニケーターの先輩から「震災後は無力感を感じたが、それがむしろバネになった」という話を聞いたのを思い出した。
  • 自分はこのウェブ調査に実際に回答したのだが、「震災後の科学コミュニケーション」と聞かれても、少し漠然としていて、答えにくいなと思いながら回答した記憶がある。

この論考の一つの肝は、震災後の科学コミュニケーターの活動にとって、三つの「壁」が存在した、という指摘である。震災後の状況の中で科学コミュニケーターが感じた厳しさを、ある意味で素直にすくい取った結果だと感じたが、違和感も残った。ここで挙げられている三つの「壁」というのが、本当に障害として認識されていた(いる)のだとしたら、多くの科学コミュニケーターが「リスク」や「感情」の問題を自らの活動の埒外だと考えていた(いる)ということになる。これは、私にとっては意外な感じがしたのである。

また「壁」への一つの処方箋として著者らは、「適切な情報(グループ・ボイス)を発信する科学者集団を見つけて共に行動することにより、職業的科学コミュニケーターは、科学的内容については科学者に預けて、コミュニケーションにおける責任のみを引き受ける形で活動を行うことができる」(p.67)と述べる。しかし、ここまでくっきりと「科学的内容」と「コミュニケーションにおける責任」を分けることができるだろうか。それが難しいからこそ、科学と社会との接点に生じる諸問題(トランス・サイエンス!)をめぐってさまざまな議論が重ねられてきたのだし、科学コミュニケーターという、間を取り持つ存在が求められているのではないか。もっとも、ここでの提言は、震災後のような特別な状況に限ってのものであり、あえてそうした線引きをすることで、非常事態を乗り切るというアイデアだと理解すべきなのかもしれない。こうした点も含めて、引き続きもっと考えてみたいと感じる、たいへん刺激的な論考であった。

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http://costep.open-ed.hokudai.ac.jp/jjsc/